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【書評】不安が押し寄せて死にたくなる夜には、悩む前に「夜と霧」を読んでほしい

たなやしき

いつも適当なたなやしきが好きな方は申し訳ない。
今回は真面目に書評するので、苦手な方は別の面白い記事を見てね
(面白い記事がないという意見は受け付けません)

最初に

夜と霧は、大変有名な本作品ですが、恥ずかしながらタイトルすら一度も聞いたことがありませんでした。

僕はfebeオーディオブック(本を音読してくれるアプリ)に月額登録していました。月額登録すると、毎月一冊の本がダウンロードできるので、2017年12月分を物色していたところ、「文芸・落語ジャンル」で一位である夜と霧に目が止まりました。
作品紹介を確認したところ、「言語を絶する感動」と評価されたという逸話に惹かれて、本書を読もうと確信しました。

通勤で一週間かけて聴き終わりましたが、実に有意義な時間を過ごすことができました。「言語を絶する感動」との評価に相違がないと思えるほど、訴えかけるものが多い名作であり、大変オススメな一冊です。

 

夜と霧とは

夜と霧は、オーストリアの心理学者のヴィクトール・エミール・フランクルの著作です。

フランクルは、ウィーン大学在学時、最近(2017年12月時点)話題のアドラーに師事しており、精神医学を学んでいました。彼は、1941年12月に結婚しましたが、ユダヤ人であったため、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策 (ホロコースト) および強制労働により、結婚の9ヶ月後に家族と共に強制収容所のテレージエンシュタットに収容されました。父はここで死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡しました。フランクルは1944年10月にアウシュビッツに送られましたが、3日後にテュルクハイムに移送され、1945年4月にアメリカ軍により解放されました。

夜と霧の原題は、「心理学者、強制収容所を体験する」であり、フランクルは、突然ナチスに捕えられ、家族と離れ離れになり、「ガス室」の恐怖や飢餓に苦しみながら過酷な労働を強いられる極限状況の中で、人はどのような心理状態に陥るのか。被収容者はどのように自分の精神を保つことができるのかを心理学者の視点で、強制収容所の現実を冷静に描写しています。本書は、強制収容所での心理状態を大きく3段階に分類して、以下の構成としています。

  1. 心理学者、強制収容所を体験する
  2. 第一段階 収容
  3. 第二段階 収容所生活
  4. 第三段階 収容所から解放されて

 

本作品は、「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」の世界の名著部門で翻訳ドキュメント部門第3位となっています。同部門で「アンネの日記」が第1位となっており、人種差別や強制労働という凄惨な事件が、いかに関心が高く、次の世代へと繋いでいくべき、重要な歴史だということがわかります。

日本の夜と霧

強制労働というキーワードから、僕は「日本人は働きすぎ」という言葉を思い出します。
日本は世界で一番労働時間が長いというイメージでしたが、残念ながら(喜ばしいことであるのだが、記事の方向性的には残念)世界ランキングでは23のようです。

以下の記事のよると、単純に長時間労働というだけでなく、労働時間の割に生産性が低いということらしいです。

参考 【世界の働き方事情】第1回:日本の労働時間は、長い?短い?

また、2013年と少し古い情報ですが、男性に限定すると、労働時間では1位というような記事もありましたので、やはり世界的にみても労働時間が長い国なのでしょう。

夜と霧では、飢餓状態で極寒の中、ツルハシで土を掘り返すような肉体労働を行なっており、作業効率は極端に悪いと考えます。そもそも強制労働させることが目的であり、作業自体に意味があるのかも不明です。

精神医学の第一人者であったフランクルが、このような無駄で単純作業に時間を浪費することは、大変苦痛であったでしょう。

その苦痛を持つことは、程度の差こそあれ、我々も同じです。日本が生産性が低い原因の一つは、慣習による無駄な単純作業が多いことだと、僕自身、社会人4年目にして実感しています。
無駄な単純作業(……実は大切なことなのかもしれませんが、あくまで個人の感覚では無駄と思える作業)というのは、時間が取られるだけでなく、人間としての尊厳を奪われる感覚があります。余談ですが、今後、このような作業を減らし、AIやロボットにさせていくということになるのでしょうが、ITに弱い日本はさらに国際競争力を失っていくのでしょう。

働き方改革が叫ばれるようになり、日本では、年720時間という残業の上限時間が設けられました。最大でも月平均60時間の残業時間となるため、プライベートの時間を確保でき、ライフワークバランスをもって生きていくことが可能になります。
残業に制限を設けることは、残業代が稼げない、スキルアップの機会がない等、色々な意見はあると思いますが、個人的には、政府はとても良い選択をしたと思います。

日本は、子供の減少、老人の増加、資源無、IT力不足、英語力不足等、国際的に不安な要因が多いです。生産力が低いため、長時間労働で、なんとか先進国としての面目を保っている中で、残業を規制することは、国際競争力を失うことに直結します。

業務を効率化して、労働時間を減らし生産性を上げることが叫ばれてはいますが、僕は日本人には無理だと思います。以下のドイツのジョークにもあるように、兵士気質の日本人にとって、与えられたことを無心で丁寧に時間をかけて頑張ることは得意です。しかしながら、日本人は無駄な作業であっても功を成すには大切な作業と信じ込む性質もあり、「自ら考えて、業務を効率化すること」は難しく、業務効率化と称して、新たな無駄な業務が発生することが関の山だと思います。(偏見が多い意見ですが、私が生きてきて感じた個人的な感想です。)

Aが言った。「最強の軍隊は
アメリカ人の将軍
ドイツ人の将校
日本人の下士官と兵

だな。じゃあ最弱は
中国人の将軍
日本人の参謀
ロシア人の将校
イタリア人の兵
かな?」

Bが答えた。
「いやいや、

イタリア軍の将軍
イタリア軍の参謀
イタリア軍の兵

だろ」

 

「ドイツジョーク」
URL: http://www.geocities.jp/asamayamanobore/joke/doitu/doitu1-50.html

日本人はみんながやってることに同調するのは得意なので、残業削減ブームに賛同する企業は続々と増え、残業時間自体はどんどん減っていくのではと感じています。(そうなってほしいという願望も込めて)

まあ、残業削減でビジネスが回らずに倒産する会社も増えると思いますが、人口減少の中で、会社が減っていくことは仕方がないことでしょう。
話はかなり逸れてしまいましたが、収容所生活でフランクルは、以下の境地にたどり着きました。

愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。

今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。

愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

そうです、愛です。

フランクルほどの過酷な運命に立ち向かった人はいないと思います。しかし、彼の限界まで追い詰められた経験から我々が学べることは、何か辛いことがあった時に、精神の根源レベルで頼れるものは、“愛”であることです。

僕は、残業の上限時間の制定は、政府からの愛だと考えます。国家戦略的には、非生産的だが従順な国民には残業を強制し、子作りを強制し、ストレスで寿命を縮め、老後無く早く死んでもらった方が、より競争力のある日本になることができるでしょう。

なぜ、そうしないのか?それは、たとえ経済が停滞し、近い未来、先進国から外れることになったとしても、今の国民に幸せでいてほしいという愛なのです。

フランクルは以下のようなことも言っています。

わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験の中で実現し心、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。
そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実の中へと救いあげられている。
それらはいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去であることも、一種のあることであり、おそらくはもっとも確実なあることなのだ。

過去の経験は宝物であるということ。過去の栄光というのはマイナスなイメージではありますが、それは揺るぎない事実であり、もっとも確実なことであるのです。

日本は、「世界第二位の経済大国」「技術力の日本」でした。これは、過去の栄光であるとともに、揺るぎない事実であるのです。

その誇りを思い出に、愛の中で、我々のできる範囲内で頑張っていけばいいんじゃないでしょうか。今後どれだけ、日本が落ちぶれようと、「元世界第二位だった誇り」は消えないのですから。過去の栄光を取り戻したい人はそれを目指せば良いし、どうでもいい人はそれなりに頑張ればいい、強制は必要ありません。

我々は愛に包まれているのですから、それで良いのです。(何かちょっと怪しい宗教ちっくですが)

たなやしきの夜と霧

僕個人の話をすると、強制労働の経験なんて無論ありませんが、人並みに辛いと感じる時期が何度かありました。特に辛かった中学校時代の部活動について話させていただこうと思います。

中学校時代のサッカー部が辛かった話

僕は、中学校時代にサッカー部に所属していました。平日は、朝練(6:00から)、昼練(昼休み)、夜練(22:00まで)となっており、休日は一日中練習、あるいは遠征や他校との試合三昧でした。夜練後は、半ベソかきながら、親に塾に連行されました。

入部動機として、プロになりたいとか甘い夢を持っていたわけでは無く(周囲の数人かは、果てない夢を持っていましたが)、仲のいい友達も一緒だから入ろう、という「ゆとり世代」的発想でした。

2世代上が全国大会に出場したこともあり、怒声や体罰は勿論(と言っても、平手打ちや投げられる程度でグーパンはないですが)、練習量が半端なかったです。それまで優しい人間社会で生きていた僕は、大変に衝撃を受けました。毎日が辛くて、生きている意味を本気で考えるようになりました。

今思えば、笑い話にもなるですが、当時は死んだら練習しなくてもいいかなぁ、なんて思っていました。周りは、下手くそでもプロになりたいと洗脳されているような人も多く、当時流行っていたサッカーノートに汚い字でバカみたいな目標や夢を書いていました。3年生になる頃には、一緒に入った仲の良い5人の友達は、2人退部し、2人は家に引きこもってニートになっていました。

僕は、監督への恐怖から退部することに躊躇していましたが、3年生の初めに学業への影響を理由に退部しました(もちろん学業は言い訳に過ぎず、サッカーから離れたかっただけです)。アラサーとなった今でも鮮明に思い出します。

退部を監督に告げた後の学校からの帰り道、とても眩しい夕日が僕を目掛けて差し込んでおりました。僕はなぜか涙が止まらず、嬉しさのあまり、ショーシャンクの空にのパッケージのようなポーズを無意識にとったのでした。めでたし、めでたし。(これは実話です)

慣れるということ

地獄の中学校生活は、僕の精神とヒザ関節をかなりスリ減らしましたが、肉体的には慣れが生じていたと思います。退部する直前には、僕の体に以下のようなことが起こっていました。

  • 試合中90分間走っても疲れなくなったこと
  • 監督に怒られて、ビンタされても何の感情も湧かなくなったこと
  • 気管支喘息持ちだったが、完治したこと
  • 4:30に起きて、6:00からの朝練の前にテレビゲームをする習慣が付いていたこと

フランクルは、夜と霧で以下のように語っています。

人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったか思わずにはいられない。

人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうかほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。

確かに人とは、何事にも慣れるものなのかもしれません。大変な苦痛が起きた時、突発的に自殺してしまう人もいると思いますが、ずっと耐え続けることができれば、そのうち慣れてしまうのかもしれません。(良いことではないのですが……)

上司のありがたいお言葉も所謂1つの慣れの例

感想

夜と霧の記事は名作のため思いが強く、少し長くなりましたが、僕はこれからの人生を乗り越えていくためには以下が必要なのでは?、と本書を読んで感じました。

下を見るということ

 

「どんなに辛いことがあっても、強制収容所よりはマシだ。」

「奨学金の残額が一向に減らずに憂鬱だけど、子持ちの派遣社員はもっと切羽詰まっている」

「学歴コンプレックスを持っているが、高卒でもあんなに有能な人がいる」

 

こうやって、下を見て、その辛さを耐えるというもの一つの方法なのではないかと思います。

愛を思い出すこと

下を見ても、まだ辛くて耐えられない。そんな時には、愛に頼ってください。

それは、恋人・家族・友人・趣味・アニメ嫁でも何でもいいのです。

愛は人として、到達できる究極にして最高のものだ、という真実を忘れないで下さい。

生きる意味を求めないこと

愛に頼ってもどうしようもない。そんなこともあるかもしれません。

そんなあなたは、僕の中学校時代に感じたものや、それ以上に死にたくなっているのかもしれません。

そして、生きている意味について考えているのかもしれません。
このまま生き続ける意味はあるのか?、と。

この答えのない問いを思索するほど、無駄で神経を衰弱させることはありません。
フランクルは、生きる意味について、こう述べています。

こで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。

わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。

考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえの行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

天才のフランクルがそう述べているのです。
我々ごときが生きる意味を考えることなど、不毛です。

我々にできることは、生きる意味を考えるのではなく、適切な態度を続けていくことだけなのです。

最後に

生きる意味を考えることが不毛?
人生って意味がないの?

と悲しむ人もいるかもしれません。

言葉遊びですが、生きる意味は定義できないけれども、生きているというだけで人生に価値が生まれるので、意味を考えてから価値を定義する必要はないということが言いたいです。

好きに生きていけばいいんです。

たとえ、他の人と比較して、ダメな人生な気がしても、生きているだけで同等の価値があるのです。

何言ってんの?
って思われた方。そんなことを考えることこそ、最大の不毛ですね。

……嘘です、ごめんなさい。ここまで読んでくれてありがとう。

それでは、次回もたなやしきで待ってるぞ!!

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